(一)襲かさね(重)の色目

重ね着または襲の色目ということばはどうして生まれたのでしょう。平安時代(794年)

--桓武天皇が平安京に都を移してから源頼朝が鎌倉に幕府を開く(1192年)の約四百年

続いた時代ですが、この時代になって今まで朝鮮や中国の服装の模倣であったのが始めて

日本独特の服装が生まれました。この時代は王朝文化、貴族文化のもっとも盛んな時であ

り、貴族たちはありとあらゆる贅沢をし、優雅にきらびやかな生活をし、たくさん重ねて

着ることは自分の財のあかしでもあったようです。また京都という土地柄、冬は寒く、そ

のうえ住まいも「寝殿造(しんでんづくり)」という貴族住宅様式で、主殿を中心に渡殿

(わたどの)というのでつながれ、室内は板敷で人の座る所だけに畳を敷き、間仕切も御

簾(みす)、几帳(きちょう)、屏風(びょうぶ)などで簡単にしてあるため寒いという

ところからも重ね着の習慣が生まれたのではないかと思われます。そして同じ重ね着する

のなら美しく装いたいと現代女性と同様平安女性たちもそう考えたのでしょう。

そして、襲の色目という言葉、法則が生まれました。

襲の色目とは

 平安時代の宮廷の公家、貴女の装束に用いられたきものの表と裏のとりあわせ、またはきものときものを重ねて着た場合の

色の組み合わせのことで、より美しく装うための美的表現を目的としていたようです。そしてその一つ一つのとり合わせにゆ

かしい季節の草花の名前をつけたり、また季節感を表わすような優雅で風情ある名前をつけて呼びならしていたようです。

そして季節、年齢、目的などにより使いわけ、なかでも季節には特定の約束ごとがあり、季節はずれの色目のものや、季節遅

れのものは失礼になり、野暮だといわれたようです。一般的には、春、夏、秋、冬、雑とに分けられていました。 春、夏、

秋、冬、雑、それぞれの襲の色目をあげてみようと思いますが、なにぶん古い時代のことゆえ、諸説があり一定しておりませ

ん。次に記しましたのは「増訂賀茂真淵全集」(校・賀茂百樹、刊・吉川弘文館)第十一巻の「かさねのいろあい」を参考に

いたしました。


春の部(表)(裏)
紅梅のきぬ
やなぎのきぬ
さくらのきぬ蘇芳(すおう)
一重梅
つぼみ梅紅梅蘇芳(すおう)
白ざくら
桃のきぬ紅梅
うら山吹
つぼすみれ
夏の部(表)(裏)
うの花
かきつばたふたあいもえ木(黄)
なでしこ紅梅
ねあやめ
花たちばな朽葉(くちば)
百合朽葉(くちば)
花なでしこ
からなでしこ共に紅
秋の部(表)(裏)
萩のきぬ蘇芳(すおう)
ふじばかま共に紫
蘇芳(すおう)
つぼみ菊
黄菊
りんどう蘇芳(すおう)
紫苑うす色
もみじ蘇芳(すおう)
はじもみじ蘇芳(すおう)
冬の部(表)(裏)
枯色うす色
初雪白のすこしうるみたる
ゆきのした
氷のきぬ白みがき
つばき蘇芳(すおう)(これは春も用う)
雑の部(表)(裏)
もえ木
とくさもえ木
えびぞめ蘇芳(すおう)花田
ささの青
みるいろもえ木花田
鳥のこ白みがき蘇芳(すおう)


雑の部の「かさね」は--このくさぐさ四時いつにても用ふべし--とあります。

このような「襲の色目」は女性ならば十二単を着装する際、袿(うちぎ)を幾枚(最低五枚)か

重ねて着ますが、その重ね着る袿(うちぎ)に使われました。また男性ならば、束帯を着装する

場合の下襲(したがさね)に使われました。現代ではこのような重ね着はいたしませんが伊達衿

をしたり、八掛に凝ったりすることは「襲の色目」の法則の名残でしょうか。夢のあることばが

好みです。


古代色目
青(古代青)みどり色
縹(はなだ)・花田あお系統の色
蘇芳(すおう)赤紫
うす色うす紫
もえ木(黄)黄緑
ふたあいやや赤味のある紫
紅梅濃い桃色
鈍色(にびいろ)灰色
橡(つるばみ)黒に近い色
朽葉(くちば)山吹色に近い色


著者略歴
 1943年大阪府箕面市生、1964年大阪女子学園短期大学食物科卒業、1977年母(現会長・大内五三)

の経営する大内きものカルチャーアカデミーの学院長に就任。伝統のきものの継承、教育に活躍中。

 また、平行して日本舞踊西川流師範・西川紋矢として活動、1989年創美新舞踊大内流を創立、家元

となり門弟の指導に当たる。その他の資格に、美容師、栄養士、華道・嵯峨御流教授、伊賀白鳳流手

組紐道師範、日本作法会教授、新内・武蔵派名取。 著者:「きもの着付教本」、その他副読本数冊。

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